診察室で受ける質問には医学的知識だけでは答えられないものがある。「昔の人は不眠症にならなかったのでしょうか」。この質問が頭にこびりついて離れなくなっていた。4年前、ヴァージニア工科大学の歴史学者エカーク博士が夜の歴史について研究していることを知った。ヨーロッパを中心に膨大な歴史的資料を調べ、史実に基づいて昔の人たちの睡眠について記述している。
都市や国が人々の安全を守る機能を十分持っていなかった近代国家の成立する前の時代まで、夜は通常の人々にとって極めて危険な時間帯だった。決してゆっくりと疲れをいやす時間ではなかった。
オオカミなどは飼っている羊をねらっている。治安が十分でなく盗賊も多かった。都市間の争いもあった。一家の主人は物音がしたらすぐ起きられないと一家の生命と財産を守ることができなかった。
こうした状況で、心配や気がかりなことがあると眠れないという人間の特徴は、生き抜くための重要な戦略であった。ぐっすり眠れない人の方がしっかりと一家の生命と財産を守ることができた。
昔でも安全に眠ることのできる環境にいた人はどうだったのか。アンデルセン童話に、白で何不自由なく育った王女がマットと羽根布団を何枚も重ねたその下に一粒のエンドウ豆があっただけで一睡もできなかった、という話がある。豊かで安全な環境で育った人はちょっとした環境の変化で不眠になりやすかった。
例外は、朝から晩まで過酷な労働に従事させられていた人々だ。自らの休息に充てられる時間が極端に少なかったため、夜間は死んだようにぐっすり眠るのが普通だったという記録が残っている。
昔の人も不眠になっていた。状況によってはぐっすり眠れないことがマイナスばかりではなかった。不眠は現代だけのものでなく、実は大昔から人間が抱えていた問題と考えるべきなのだろう。
わたしたちが当たり前とみなす安心してぐっすり眠るという考えが、豊かで安全な社会に特有な新しいものなのだといえる。
(日本大学医学部精神医学講座教授 内山 真)
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