しつけのナゾ


言葉や計算の知性があれば、音楽や絵画の知性もある。色々な知性の中で最も重要なものは、社会性や人格を作る知性、つまり前頭知性(自我)だった。

ここで注意すべきことは、前頭知性も他の知性も、遺伝的であるとともに、環境によって大きく変化する要素を持つ点だ。放っておけば育つというものではない。それなりの環境が必要である。

特に幼少期の環境が不適切だと、前頭知性は満足に育たない。社会性や人格が未熟な大人になりかねない。むやみに攻撃的だったりすぐにキレたりする人の増加、あるいはストーカーや引きこもりの増加の背景にも、こうした要因があるようにみえる。

では、前頭知性の発達にどんな環境が必要か。答えははっきりしている。豊かな社会関係である。幼少のころに豊かな社会関係を経なければ、前頭知性はうまく育たない。このことを如実に示しているのは、サルの社会的隔離の実験である。

脳内の主な情報伝達物質
物質名
主な働き
グルタミン酸
y−アミノ酸
神経細胞の活動を高める
神経細胞の活動を抑制
ドーパミン
ノルアドレナリン
セロトニン
メラトニン
アセチルコリン
思考、運動、攻撃性に関係
注意、警戒心に関係
幸福感、情緒、生体リズムに関係
睡眠などの生体リズムに関係
記憶に関係

これは、生まれた直後のサルを母と群れから隔離し人工保育をする実験である。元々社会的動物であるサルを子供のころから隔離して育てるので、社会的隔離という。隔離期間は1年か2年でよい。その後には群れに戻す。たった、1、2年の社会的隔離だけで大きな症状が現れ、生涯にわたって続くのだ。

症状で特に目立つのは、むやみで衝動的な攻撃行動である。恐れや引きこもりも出てくる。同じ行動の繰り返しも目立つ。こうしたサルは、群れに戻しても当然ながら群れ社会にほとんど適応できない。いじめられたり攻撃されたりする頻度も多く、群れから追い出されてしまうこともある。これは生涯続き、適切な配偶行動もできない。

彼らが衰弱して死んだ後に脳を調べると、驚くべきことに、セロトニンやドーパミンという情報伝達物質を分泌する神経細胞が激減していたのだ。ドーパミンはやる気や思考力に重要であり、セロトニンは愛情や安心感、幸福感を生む物質である。セロトニンが不足した場合、うつ的症状や引きこもりが出、セロトニンが足りない母親は、母性愛が弱く、子供を邪魔にして満足に子育てできない。社会的隔離でこのような物質が激減するのは大変なことである。

この効果は2歳くらいまでの間に1、2年ほど隔離すると、顕著に起きる。2歳になってから1年ほどして隔離し群れに戻しても、多少の障害は現れるものの、結局は群れにうまく適応できる。

サルのデータを人間にそのまま適応することはできないが、人間も同じ社会的霊長類なので、大いに参考になる。人間でも幼少のころに社会的隔離のような状況に陥れば、様々な行動異常や脳内物質の異常が起きかねない。その影響が重大になる臨界期は、サルのデータを踏まえれば8歳前後だ。

人で社会的隔離実験はできない。これと同程度の社会的隔離を幼少期に受けることもまれだろう。しかし、少子化や母子密着型の子育てのため、社会的隔離に近い状態になりがちである。その結果、社会的隔離症候群のような現象がまん延してきているのかもしれない。幼少期の豊かな社会関係の重要性は、強調してもし過ぎることはないのである。(北海道大学教授 沢口俊之)

(2001.6.24 日本経済新聞)