生と死、見つめて がんと闘う産婦人科医
 

生と死、見つめて がんと闘う産婦人科医 
新たな命に「全力注ぐ」 「ルポ ふくしまを生きる」

 体育館の床に、白い布をかぶせられた約20体の遺体が安置されていた。ホースの水で泥を洗い流し、服を脱がせ、所持品を整理した。のどに真っ黒な泥が詰まり、体のあちこちが骨折していた。

 福島県南相馬市の産婦人科医、高橋亨平(たかはし・きょうへい)さん(73)は東日本大震災の発生2日後、市内の県立高校で津波犠牲者の検視に協力した。自分の病院でお産した女性とみられる遺体もあった。

 「突然恐ろしい目に遭って。本当に無念だったろうな...」。41年間で取り上げた赤ちゃんは約1万5千人。自らの経験を、生まれてくる命に全力で注ぐと決心した。

 福島第1原発から約24キロ離れた南相馬市の原町中央産婦人科医院。昨年3月11日、診察中に激しく揺れた。沿岸部には大津波。老若男女、症状を問わず、患者を受け入れた。原発事故で周りの病院はほとんど避難したが、看護師4人と残り、院長として地域の医療を支え続けた。

 5月下旬、お尻に鈍い痛みを感じた。「痔(じ)かな」と思ったが、精密検査の結果は「進行した直腸がん。肝臓と肺にも転移していて、何も治療しなければ余命半年」。突然の宣告に戸惑った。

 診察室を離れなかった。抗がん剤治療を受け、体調が整えば手術に挑む道を選んだ。40年来の"コンビ"看護師長の山田米美(やまだ・よねみ)さん(73)は「抗がん剤で体の抵抗力が落ちてしまうのに、もし病気がうつったら...」と心配したが、高橋さんは「やっぱり現場にいたいんだ」と思いを貫いた。

 2週間に1度、福島市の県立医大病院で、右胸に開けた穴から抗がん剤を4時間かけて点滴する。自宅に戻ってからも、46時間は簡易ポンプを持ち歩き、同様に抗がん剤を体に染み込ませる。目まいや貧血の副作用が出るときもあるが、治療を受けた翌日もポンプを胸ポケットに入れ、診察を休まない。

 山田さんは、高橋さんが怒って大きな声を出したのを一度も見たことがない。「もともとお産に不安は付き物だけど、先生はあの穏やかな笑顔で、妊婦に信頼されてきた」。がんを患っても、それは変わらない。原発事故でいったん避難したが、高橋さんを頼って通院を再開した妊婦もいた。

 南相馬市では、放射線への不安から多くの妊婦や子どもが避難したまま。高橋さんは「1年、1年半と子どもが避難先になじんでしまうと、家族としてはなかなか戻れないよね」と心配する。

 「俺はいつか訪れる日のために、一日一日、ベストを尽くすっていうことかな」。高橋さんの病院で1年間に生まれる赤ちゃんは、ここ数年90人以上。状況は厳しかったが昨年は30人、今年も11人が産声を上げた。

 寝るとき以外は白衣を着て、妊婦が産気づくのを待つ。「未来の子どもに将来を託すしかないんだよ。子どもの存在自体が、希望で、夢で、復興そのものなんだよ。絶対に」

2012年3月12日 提供:共同通信社