死にたくない...でも 放射線との闘い 
双葉署員の「備忘録」

 

 見渡す限り、誰一人としていない。自動販売機の明かりだけがこうこうとしていた。東京電力福島第1原発の事故直後の昨年3月中旬。福島県田村市都路地区で、県警双葉署捜査1係長の警部補佐藤孝男(さとう・たかお)さん(51)は給油のため捜査車両を走らせていた。

 「係長、もういいじゃないですか。死にたくない...」。助手席の部下が思い詰めた顔で訴えた。佐藤さんは一瞬「ほんじゃ、逃げっかな」と思った。「でも、避難できていない人がいる、って。俺らだけ逃げるわけにはいかない」

 同署は第1原発の南約9キロ、富岡町にあったが、地震の発生翌日に約21キロ離れた川内村の役場に機能移転。当時は地震の影響で携帯電話の電波が届かなかった。佐藤さんは受信できる場所を求め、家族と連絡が取れない同僚らから託された携帯約40台を車に積んでいた。

 携帯メールの着信音が一斉に鳴る。署に持って戻ると、仲間が携帯をそれぞれ手に取った。「無事だったんだ」。皆、ぼろぼろと涙を流していた。佐藤さんは、備忘録代わりの手帳や大学ノート、後日書き留めた手記を基に最前線の様子を証言した。

   ×   ×   

 ▽死んじゃうのかな

 「パトカーが津波にのみ込まれ浮いているとの情報が寄せられ、現場付近に向かったが、海水とがれきでとても近づける状況ではなかった」。手記には、昨年3月11日のJR富岡駅周辺の模様が記されていた。

 「当署警察官3名が行方不明となり、2名のご遺体が発見されたものの、1名についてはいまだ発見されていない」

 佐藤さんはこの日、メモを取る余裕がなく、手帳欄に後から「14:46 東日本大震災」とだけ書いた。

 機能移転当日の午後、第1原発1号機で水素爆発。「広島とか長崎の原爆を想像して、自分たちも放射能かぶって死んじゃうのかなと。手記に書いてるけど『これで人生終わり』って思った。手帳に『3号機爆発か?』って書いてるけど、1号機とか3号機とか分からなかった」

 双葉署は本部の指示で同15日、川俣町にある福島署川俣分庁舎に再移転。当時、署員全員に線量計は行き渡らなかった。佐藤さんは浪江町の自宅に帰れず、二本松市の避難所にいた家族と再会できたのもこのころ。無精ひげを生やしたままだったが、娘2人が抱きついてきた。

 ▽検視200体

 手帳やノートには22日から4月6日の欄にかけて「浪江町請戸(うけど)両竹(もろたけ) 遺体回収」「双葉町両竹(もろたけ) 遺体回収」「富岡町毛萱(けがや) 遺体回収 検視」「双葉病院 4遺体」などと短い言葉が並ぶ。

 双葉病院は、大熊町にある私立の精神科病院。佐藤さんは日付の記憶があいまいながら、院内は暗く冷え込み、首輪をした犬がうろついていたのを覚えている。お年寄り4人の遺体をマイクロバスに運び込み、署で遺族に引き渡したという。

 手帳の4月14日の欄には「双葉郡内の本格的捜索」。佐藤さんらによる検視は身内や同僚も含め約200体に上った。その前にも双葉町を捜索。線量計のアラーム音をずっと耳にしながらぬかるみを歩き、津波で柱だけになった民家で女性の遺体を搬送した。2階に見えた男性の遺体は手の施しようがなかった。

 次々と降り掛かる異常な状況に心をむしばまれ、仕事に身が入らなくなった時期もあった。「当時精神的に病んでなかった双葉署員はいなかったと思う」(手記)という過酷さだった。

 4カ月がたち、時間とともに気持ちも落ち着いてきた。佐藤さんはこの時の心境を「唯一得たものは『今を大切に生きる』こと。『過去は過去のもの』として必要以上に振り返らず、前向きに生活していきたい」と手記につづっている。
 

2012年3月12日 提供:共同通信社