標準治療 遅れる導入
・保険適用外が壁
・進まぬ臨床研究

抗がん剤を使った化学療法は、手術、放射線とともに、がんの主要な治療法だ。しかし優れた抗がん剤が続々と臨床現場に導入され成果を上げている欧米と違い、日本では国際的な標準治療を受けられない例が珍しくない。新薬を素早く、柔軟に普及させる仕組みが整っていないためだ。

●半世紀前の省令足かせ

「なぜ日米で差があるのか」。米国で乳がん治療を受ける40代の主婦、佐藤由美さん(仮名)は、帰国後のことを考えると頭が痛い。現在使っている効果の高い抗がん剤が日本では未承認だからだ。夫の米国駐在が長く続く保証はなく、不安は募る一方だ。

厚生労働省研究班の調査によると、米食品医薬品局(FDA)が承認した133種類の抗がん剤のうち、60品目は日本で未承認(2003年10月時点)だ。しかし日米の違いは単純な承認の有無とは別のところにある。

例えば肺がんの標準治療薬シスプラチンは、日本では承認済みだが、米FDAは肺がん向けに承認していない。それでも米国の臨床現場では普通に使っている。日本が今年1月に承認したぼうこうがんなどの「M−VAC療法」も同様だ。昨年まで日米とも未承認だったが、日常の診療で支障を来たしたのは日本だけだ。

米国には、抗がん剤がある1つの効能で承認を得ていれば、公的保険がその他の効能について最新の臨床研究成果を柔軟に取り入れ、迅速に適用範囲を広げる仕組みがある。シスプラチンが自由に使えるのはこのためだ。

これに対し日本では、薬事法上の承認と保険適用が「1対1」で対応しているため、臨床研究で効果が明らかになった標準治療でも、保険診療には使えない。足かせになっているのは、承認外の投薬を保険医に禁じた半世紀前の省令。国立がんセンター中央病院(東京・中央)の藤原康弘治験管理室長は「こうした法的承認と保険制度の硬直した関係こそ元凶」と指摘する。

厚労省も保険制度にこそ手をつけないが、標準治療の国内導入を進める改善策を相次ぎ打ち出している。海外実績などで効果が明らかな場合は新たな臨床試験なしに承認申請することを1999年に容認。M−VAC療法で使う抗がん剤は、この仕組みで承認を得た。今年からは行政主導で海外データを収集・検証して企業に申請を促す「抗がん剤併用療法に関する検討会」も発足した。

●審査迅速化も内実に差

かねて問題視されていた承認審査の遅さは、ほぼ解消されている。医薬産業政策研究所の調査などによると、申請から承認までにかかる時間は現在、12カ月程度と欧米並みに。しかし米FDAで審査官を務めていた北里大学の竹内正弘教授は「内実には大きな差がある」と話す。

まず審査官の数。FDAの3千人に対し日本の医薬品医療機器総合機構は約150人に過ぎない。特に臨床試験の科学的評価に欠かせない生物の統計の専門家は米の百数十人に対し日本は3人と著しく見劣りする。同機構の豊島聰理事(審査センター長)は「よりよい医薬品をより早く患者に届けるには、質の高い審査が不可欠。十分な知識と能力を持つ優秀な審査官を産管学で育てていく必要がある」と強調する。

審査の透明性も課題のひとつだ。米国では審査の過程で外部の専門家に意見を聞く諮問委員会を必要に応じて開く。一般市民が傍聴でき、がん患者の代表も委員として意見を述べることができる。

●補償制度に不備 
抗がん剤治療の進歩の原動力となる臨床研究を実施しにくいのも日本の問題点といえる。「抗がん剤には副作用がつきもの。臨床研究で健康被害が生じたときの補償はどうすればいいのか」「金銭的な補償制度はないのが現実。患者への説明文書にそのことを正直に書くしかない」――。先月末、日本癌(がん)治療学会の倫理委員会フォーラムでこんなやりとりがあった。

現在、保険診療下で実施でき、補償制度も整備されているのは、承認申請を前提とする臨床試験だけだ。その他の臨床研究は法的根拠のない指針でしか規制されておらず、質にばらつきがある。こうしたこともあり、研究的診療を受ける患者は少なく、臨床研究のすそ野が広がらない。

優れた抗がん剤を日常診療に橋渡しするには、臨床研究の拡充が不可欠だ。国立がんセンターの藤原室長は「医師も患者も安心して臨床研究に取り組めるよう、研究推進と被験者の保護を両立する仕組みづくりが急務」と訴える。

専門医不足の解消課題
「化学療法は日進月歩。医師個人の思いつきで危険性をはらむ新薬を勝手に使うような事態があってはならない」
こう話す武藤徹一郎院長のもと、癌研究会付属病院(東京・豊島)では、すべての抗がん剤について副作用の危険度や使いやすさによって「ダブルA」から「C」の4段階に分けている。担当診療科の裁量に任せるのは「C」だけで、「A」以上は専門家の集団である化学療法科しか使えない。

こうした取り組みが必要となる背景には、抗がん剤の使い方にたけた専門医が少ないという事情がある。米国では化学療法を専門とする「腫瘍(しゅよう)内科医」が9千5百人もいるが、日本にはまだ確立した専門医制度がなく、抗がん剤の使い方に習熟した医師は5百人程度しかいないとされる。

日本臨床腫瘍学会は、抗がん剤治療の十分な経験と知識を備えた腫瘍内科医の育成・認定する制度の準備を進めており、2006年4月に最初の専門医が誕生する予定だ。日本癌治療学会も先月、化学療法を含め、がん治療の全般的知識を備えた専門医制度を作ることを決定。同学会の北島政樹理事長は「国民が安心してがん医療を受けられる態勢を整えたい」と言い切る。

がん治療の最前線で数多くの専門医が活躍する日が近づいているが、そのカギは、関連学会の連携がうまくいくかどうかにかかっている。

治験や承認審査を巡る最近の主な動き

1991年 日米欧薬品規制調和会議(ICH)の第1回会議。治験や承認審査の規制を整合化、医薬品の実用化を促す。
1997年 審査センター設立。旧厚生省から独立して内部チーム審査が始まる。効率化で審査期間の大幅短縮へ
1998年 薬事法に基づく治験の新指針(GCP)全面施行。文書によるインフォームドコンセントなど患者の保護の徹底へ治験の手続きを厳格に
ICHの「E5指針」施行。治療の無駄な重複を省き医療品開発を効率化するため、承認申請の際の海外治療データの受け入れを拡大へ
1999年 旧厚生省の2課長通知。効果が明白な海外の標準治療は国内治験なしで承認へ
2003年 政府の治験活性化3カ年計画が始動。大規模治験ネットワークの構築などが始まる
改正薬事法施行。臨床現場のニーズに基づく医師主導の治験が可能に
2004年 厚労省の「抗がん剤併用療法に関する検討会」発足。海外の標準治療を迅速承認へ
審査センターなどを統合した医薬品医療機器総合機構が発足。治験相談から承認審査まで首尾一貫して手がける体制に

ことば

▼臨床試験(治験)
新薬などの効果や安全性を人間を対象に調べる臨床研究の一種。有効な疾患の拡大や使用法変更の検討を含む。特に、国への承認申請を目的とするものを治験と呼ぶ。
抗がん剤の場合、少数の患者を対象に主に安全性を調べる「第一相」、少数の患者で腫瘍の縮小効果などを調べる「第二相」、多数の患者で延命効果を中心に検証する「第三相」の3段階に分かれる。薬事法に基づくGCPというルールが治験の手続きを厳密に定め、患者を保護する仕組みになっている。
2004.11.7 日本経済新聞