感染症医としての第一の仕事は、このような患者に専門的な知識を提供することです。具体的には様々な形がありますが、難しい感染症を抱える患者一人ひとりの診断と治療、未解決問題への取り組みといったこともあれば、適正な医療の推進という地味な活動も含まれます。このような取り組みは、どのような形で患者のために実を結ぶのでしょうか? 「超一流の施設」の歴史をひも解くと、その重要性を垣間見ることができます。
カリニ肺炎をまれな疾患にしたST合剤予防内服法
私は2つの病院の合同プログラムで感染症のトレーニングを受けました。その一つはセントジュード小児病院という、悪性腫瘍を中心とした小児難治性疾患を扱う専門病院で、感染症領域では二次免疫不全症における感染症治療のエビデンスを世界中に発信してきました。
どんな物語にも始まりがあるように、セントジュード小児病院感染症科の物語も、1969年にヒューズ医師が赴任して来たところから始まります。ヒューズ医師は、ルイビル(ケンタッキー州)にある小児病院で、若き教授として既に確たる地位を築いていましたが、セントジュード小児病院の理念に共感してメンフィス(テネシー州)にやって来たのです。
1960年代後半、小児の急性リンパ性白血病に対して、多剤療法に加えて中枢神経系への放射線療法を併用することで、生存率を4%から50%へと飛躍的に改善させていたセントジュード小児病院ですが、その一方で、強力な骨髄抑制に続発する重症感染症で毎年何十人もの子どもが命を落とすという厳しい現実と向き合っていました(*注)。中でも、重篤な経過をたどるカリニ肺炎に対する治療法は、当時はイセチオン酸ペンタミジンの筋注のみで、その薬は使用の度にアメリカ疾病予防管理センター(CDC)から取り寄せなければならない上に、多くの場合で副作用を伴うことが問題となっていました。
科学者でもあるヒューズ医師は、まずカリニ肺炎の動物実験モデルを開発しました。さらに、葉酸合成拮抗薬であるスルファドキシン・ピリメタミン配合剤(商品名ファンシダール)がカリニ肺炎に一部有効であるという報告からヒントを得て、この動物実験モデルを使って、当時はアメリカで使用されていなかったST合剤(トリメトプリム・スルファメトキサゾール;TMP/SMX)の有用性を証明しました。
*注 現在では、リスクに応じた化学療法と髄腔内への薬物投与が放射線療法に取って代わり、小児の急性リンパ性白血病の生存率は90%以上に向上しています。
次に、臨床試験を行ってカリニ肺炎の子どもに対しても有効かつ安全であることを示し、1974年にはランダム化二重盲検比較試験を行ってST合剤による予防法を確立したのです。それまで年間40例ほどあったセントジュード小児病院内のカリニ肺炎の症例数は、一気にゼロになりました。その後、ST合剤予防内服法は世界標準となり、カリニ肺炎はまれな疾患となりました。
地道な努力が生み出す世界標準
1970年代後半になってカリニ肺炎にかかる患者はほとんどいなくなりましたが、強力化する化学療法に伴う重度の免疫不全の合併症として起こる敗血症で亡くなる子どもは後を絶ちませんでした。当時のスタッフは「1980年代初めでさえ、毎週のように子どもが感染症で命を落としていた」と述介しています。
1970年代に成人を対象に行われた臨床試験からは、免疫が低下して好中球が減っている状態では、グラム陰性桿菌を狙った早期治療が必要であることが分かっていました。しかしながら、治療が個々の医師の裁量に任されていた当時は、使用する抗菌薬の種類や量から開始のタイミングまで、バラバラの状態だったのです。
この時点では小児の敗血症の治療法は確立していませんから、医師の誰もが「自分は適正な治療を行っている」と信じて、独自のさじ加減による処方をしていたわけです。比べる対象もありませんでしたから、不幸な転帰をたどった場合は、起こるべくして起こったものと考えられていたのも無理ありません。
そこで、治療を標準化しようという動きが出てきたわけですが、当時からの感染症スタッフであるシェネップ先生によると、これには相当な抵抗があったようです。それでも、感染症科の総意をまとめ、他科の医師たちと対話を続け、プロトコルを決めたことで、基準となる客観的な指標が初めてできました。
それを受けて1984年に行われたランダム化比較試験では、子どもの発熱性好中球減少症は、成人の場合とは事情が違い、グラム陽性菌感染症が予後に大きな影響を与えていることが分かりました。その後、治療プロトコルは改訂を重ね、集中管理医療の発展もあって、治療成績は確実に向上しました。こうして現在、敗血症で患者が亡くなることはまれになったのです。
2病院20人の感染症医が症例を毎週吟味
私がトレーニングを受けたもう一つの病院はレボーナー小児病院で、アメリカ南部200km圏内で唯一の一般小児病院です。この圏内の重症小児患者は、すべてこの病院に集まります。
1980〜90年代、アメリカ全体として治療の標準化や予防医学が推し進められた結果、感染症の総数は減りましたが、まれな症例自体は減ることがありませんでした。また、かつては一般小児科医が診ていたインフルエンザ桿菌の髄膜炎や麻疹などは、発生自体が予防医学の破碇を示唆する出来事なので、感染症医の介入が必須の病気になりました。近隣あるいは州外からの問い合わせは、感染症に関するものに限っても毎日10件を超え、私たちに挑みかかってきます。
毎週金曜の朝、セントジュード小児病院とレボーナー小児病院の感染症医総勢20人余りが集まり、双方の施設から1例ずつ症例提示をして、診断や治療法に関する活発な議論が繰り広げられます。1人の医師の経験にはおのずと限界があるので、何百万人に1人という疾患や状態を扱う場合は、複数の医師の経験や知識が物を言います。
先日、看護師が未熟児の血液を採取した際に、誤って自分の指を刺してしまうという事故がありました。これをきっかけにルーチンの検査が行われ、この赤ちゃんの血液検査でB型肝炎ウイルス(HBs抗原)が陽性であることが判明しまた。再検査でも陽性でしたが、両親の血液検査の結果は陰性で、生後まもなく受けた輸血が感染源であることが疑われました。そして、血液バンクをはじめ、ドナーや輸血を受けた他の患者、保健所を巻き込む大騒動に発展したのです。ところが、輸血した血液、ドナー、他の患者はすべて陰性でした。いったい「B型肝炎ウイルス」はどこから来たのでしょう?
この一件についてカンファレンスでは、患者が新生児であり出生直後にB型肝炎ワクチンの接種を受けているであろうこと、血液検査で検知された抗原がワクチンの抗原と同じものであること、新生児の場合はワクチンの抗原が比較的長い間、血液中から検出されることが指摘されました。果たして、この赤ちゃんの血液からウイルスのDNAが検出されることはなく、抗原検査も2週間後には陰性化しました。ワクチン接種による偽陽性だったということで一件落着したのです。
感染症医の仕事の醍醐味の一端は、このような“医療ミステリー”を「Dr.HOUSE」(アメリカや日本で放映されている医療ドラマ)さながらの知識と洞察力により解決していくことにあります。ただし、現実には標準的な医療が確立していない問題があったり、白黒付かない状況で意見を求められたりすることがよくあります。こうした「正解のない問題」に対する医師の方針は人によって千差万別で、「自分のマネジメントは妥当なのか?」「ほかにより良い方法がないものか?」ということを、複数のスタッフの知恵を借りながら多面的に検討することが不可欠です。
1人の患者の治療に総力を注ぎ込んで当たること、1人の類まれな人材がbench to bedside的な医療を推し進めること、地道な努力で医療の質を向上させること…。感染症医が活躍する場面は様々ですが、いずれの場合であれ、大事なのは結果を出すことだと私は思います。ただし、目に見える結果を出すためには、大勢の患者が集まること、有能な人材に投資するシステムが前提となるでしょう。