学習障害や注意欠陥の子供

不満抱く児童ら拍車  大人は障害の知識学んで


全国の学校に広がっているといわれる学級崩壊は、文部省も実態把握に乗り出すなど、大きな社会問題になっている。LD(学習障害)児の長男を持つ横浜市立庄戸中学校の上野健一教諭は、学級崩壊の多くは、LD児やADHD(注意欠陥・多動性障害)児といわれる子供たちが発端になっているのではないかと考え、教師や学校はLDやADHDの子供たちのことをもっと理解してほしいと指摘する。

不登校、非行の低年齢化、いじめ、キレる子供――。教育現場の課題は、そのどれもがほとんど何も解決されないうちに、めまぐるしく移り変わっていく。最近では学級崩壊が新たな問題として登場してきた。そして、これまでの諸問題同様、学級崩壊に関しても、いろいろな立場の人々が、それぞれの見地からさまざまな意見や提言を述べている。だが、そのどれを見ても、親のしつけ、教師・学校・教育制度の問題、現代社会の弊害など、子供以外のところに原因を見つけ出そうとしているようである。

もちろん、それらが原因の一部である可能性を否定する気はない。しかし、私は、学級崩壊は次に述べることが主たる原因で起きている現象ではないかと考えている。

各クラスに数人

そもそも、授業中に立ち歩いたり、大声でおしゃべりをしたり、遊び道具を学校に持ち込んだり、教師に対して悪態をついたり、指示や注意を守れないなど、学級崩壊の発端の多くは、LD児やADHD児が作っているのではないだろうか。LDやADHDは脳の中枢神経の機能障害が原因と考えられ、それぞれが同世代の子供の3−5%いるといわれている。つまり、各学級にLDやADHDの子供が少なくとも2−5人程度はいる計算になる。

ただし、発端はLDやADHDの子供たちであっても、その後の学級崩壊の核となっているのは、それまで優等生や良い子(教師の言いなりになる子)と見られていた学級のリーダー的・模範的な子供たちや、その取り巻きの子供たちである。彼らの行動は意図的、計画的であることが多く、学級担任への積もり積もった不満や不信から形成された反抗心が形となって現れている。

では、なぜ学級崩壊が中学校ではなく、小学校で続発しているのであろうか。
「小学生のような子供をなぜ抑えられないのか」と疑問を抱く人も多いようである。これには主な理由が3つあると、私は考えている。

まず、中学校は教科担任制であるために、学級担任がクラスの問題点を隠そうとしても、隠しきれないのに対し、小学校では学級担任があらゆる問題を抱え込まざるを得ない状況にあること。次に、中学生ともなれば、分別のついた子供がかなりいるのに比べ、小学生ではそのような子供は少なく、逆に善悪の判断や行動の自己抑制に甘さの目立つ子供が多いこと。最後に中学生には進路の問題が無意識のうちに、行動の足かせになっていること。以上のようなことが、学級崩壊における小学校と中学校の大きな違いであると思う。

学級崩壊の発端となるLDやADHDの子供たちについて述べたい。学級の中に落ち着きがない、トラブルを起こしやすい、ルールが守れない、パニックを起こすなどの問題をもつ子供がいると、すぐに教師は「しつけができていない」「親が変だから、子供もおかしい」と、子供の問題行動の原因はすべて親のしつけにあるような言い方をする。

教えても改善されず

もちろん、放任や虐待、過剰期待など親のしつけが原因で問題行動を起こす子供が皆無だと言うつもりはない。しかし、大部分の親は、授業中に騒いではいけない、人の嫌がることをやってはいけない、教師に逆らってはいけないと教えているのである。学校でも親が言っていることと同じようなことを毎時間のように、教師たちが指導したり、注意したりしている。

それにもかかわらず、問題行動が一向に改善されない子供たちがいる。それがLDやADHDといわれる子供たちなのである。

教師は、子供の問題行動の原因を、親のしつけだけに求めるべきではないと思う。その子供自身の発達上の問題(脳の中枢神経の機能障害)としてとらえられる心の広さ、気持ちの余裕、頭の柔軟さ、そして子供の発達に関する知識を持っていてほしい。

教師は万能ではない


教育は万能ではないし、教師も万能ではない。教育の範疇(はんちゅう)を超え、カウンセリングや治療教育が必要な事例は、現在の教育現場の中にはいくらでもある。ただ、多くの教師や親はそれに気付いていない。それは子供にとっても不幸なことである。教師は、子供のすべての問題を自分だけで何とかしようと思ったり、自分の責任だと思い込んだり、外部に知られることを学校のメンツにかかわるなどと思うのではなく、子供を学校以外の他機関にゆだねる勇気を持つことも必要だろう。

そのためには、教師には、LDやADHDについてもっと学んでほしい。教師の多くは、LDやADHDについてはほとんど知識がないのが現状である。各地の教育委員会はLDやADHDに関する研修を必修化し、全教員にLDやADHDの子供たちへの理解と援助を促すべきであろう。文部省は、積極的にLDやADHDの啓発活動を進めるとともに、その指導法の開発と普及に努め、具体的な施策を実行することを求めたい。教育相談機関の相談員も、親や教師などの相談者が納得でき、満足できる回答を与えられるように、あらゆる教育的課題や子供の発達上の諸問題に精通していることが必要だろう。相談機関自体の機能充実も早急に検討されることが望まれる。

最後に、親であれ、教師であれ、カウンセラーであれ、教育相談員であれ、発達過程にある子供のかかわる者の心ない一言や不適切な対応が、その子供の人生を大きく左右するかもしれないということを肝に銘じ、すべての大人が真摯(しんし)な態度で教育に携わる姿勢が大切であることはいうまでもない。

定義にばらつき
理解進まぬ背景


文部省が教師向けに作った「学習障害(LD)児等の理解に向けて みつめよう一人一人を」というパンフレットには、LDとは「知的な発達に全般的な遅れはなく、多くのことがほかの子供たちと同じようにできるのに、ある特定のことができない状態」を指すと書かれている。

これは、95年3月に「学習障害及びこれに類似する学習上の困難を有する児童生徒の指導方法に関する調査研究協力者会議」がまとめた「学習障害児等に対する指導について」という中間報告の中の定義を引用したものだ。だが、この定義はわかりにくいという指摘が相次ぎ、協力者会議は早ければ夏ごろまでに定義の見直しを公表するため、作業を急いでいるという。

同省の担当者は「早くから学習障害を取り上げている米国でも、専門領域や研究者によって概念はかなり異なっているのが実情」と言う。

LD児やADHD児の問題が新たな教育課題だと指摘する人は少なくない。文部省自身も7年前に協力者会議を発足させておきながら、一般の理解がなかなか進まない背景には、まず定義からして専門家の意見が一致していないという事情も無縁ではなさそうだ。こうしたこともあって、LD児の保護者などからは「現実に困っている子供たちがいるのだから、早く援助の手をさしのべることを考えてほしい」という声も上がっている。

(1999.3.28 日本経済新聞)